樹状コンピュータ:1 + 1 = 3になる時
人間の脳には860億個ものニューロンがあり、複雑で広大なネットワークで結ばれています。このネットワークは、私たちの動作、思考、会話や記憶などを制御しており、シナプスと呼ばれる何兆もの接合部を介して重要な情報をやり取りしています。それぞれのニューロンには、このシナプスを介して何千もの信号が常に送られており、その中には重要なものもそうでないものも含まれています。しかし、信号を受けとる側のニューロンがその膨大な入力からどのようにして適切な情報を取り出すのかは、まだ完全に明らかにされていません。
沖縄科学技術大学院大学(OIST)の光学ニューロイメージングユニットを率いるベアン・クン教授は次のように説明します。「これは 『信号とノイズ』の問題として知られており、過去50年間、神経科学の分野で研究が行われてきました。先行研究では、ニューロンが個々のコンピュータとして機能し、これらの信号にどのように反応するかを各自で判断しているという見解が示されてきましたが、これらの判断を行うための正確なメカニズムを突き止めることは、技術上、実に困難であることが明らかになっています。」
ニューロンは、信号とノイズの問題への対処として、特に同時に受け取った信号により注目します。例えば、2つの入力信号を同時に受け取ると、その信号を非線形的に増幅させ、あたかも3つの入力を受け取ったかのように反応することがあるのです。
これまでは、このような同時入力にニューロンがどのように反応するかを調べる際には、脳組織切片が使用されていましたが、この方法では「氷山の一角を見ているようなもの」だと研究チームは指摘しています。
そこで、2018年にOISTの光学ニューロイメージングユニットは、強力な新技術を開発しました。二光子膜電位イメージングを用いてニューロンの三次元構造を明らかにし、電気的活動を低侵襲的な方法で検出することができるという技術です。
同技術の開発により、脳組織切片ではなく、活動している動物の脳で「信号と雑音」問題に取り組むことが初めて可能となりました。同研究成果は、2020年末にeLifeに掲載されました。
光学ニューロイメージングユニットのスタッフサイエンティストで同論文の筆頭著者のクリストファー・ルーム博士は、次のように説明します。「生きた動物で調べることで、脳内で起こっている変化をこれまでにないほど詳細に知ることが可能となります。脳切片を使う場合、切り離されたニューロンに電気刺激を与えてその応答を調べますが、その刺激は生体内で受け取る信号とは異なります。生体内のニューロンには、何千もの自然な信号が入力されており、この中には、ニューロンがフィルタリングしなければならない自発的な信号と、感覚刺激により誘起されニューロンが反応しなければならない信号の両方が含まれています。したがって、私達の技術により、ニューロンがこれらの信号を処理し、区別するさまざまな方法が見えてくるのです。」
同研究では、マウスを使用して、小脳に存在する「プルキンエ細胞」という種類の脳細胞を調べました。小脳は脳の一部で、運動の制御に関わっています。
プルキンエ細胞は、別の2種類のニューロンの軸索である平行線維と登上線維から信号を受け取ります。1つのプルキンエ細胞には、1本の登上線維が接続されており、強力な入力信号を送ってきます。この信号は、動物が運動を学習し、調整するのに役立っていると研究者らは考えています。
一方、平行線維は、1つのプルキンエ細胞に対して約10万本接続されており、体の位置や、動物が触れようとする体外の物体に関する詳細な情報を送ってきます。
活動しているマウスの眼球に少量の空気を吹き付けると、まばたき反射が起こり、複数の信号がプルキンエ細胞に伝達されます。OISTの研究チームは、平行線維と登上線維からこれらの信号を受け取ったプルキンエ細胞がどのように反応するかを観察しました。
そして、空気を吹き付けられたことによって誘起シグナルと呼ばれる信号が生じますが、それへの応答の一つとして、プルキンエ細胞に樹状突起スパイクが発生することを研究チームが発見しました。樹状突起スパイクとは、樹状突起の内部でのみ発生する電気的信号(活動電位)のことです。
「一般的に、ニューロンは入力信号を樹状突起に伝え、樹状突起がすべての信号をまとめると考えられています。そして、ある閾値に達すると活動電位が発生し、軸索を伝わっていきます。しかし、実際にはもう少し複雑です。信号が十分に強ければ、樹状突起でも活動電位が発生し、樹状突起内の局所に留まることもあります」とクン教授は説明します。
先行研究では、樹状突起スパイクは、登上線維から強力な信号が伝達されることによって誘起されることが示されていました。しかし、今回の研究では、プルキンエ細胞が複数の平行線維から同時に誘起シグナルを受けたときに、局所的な樹状突起スパイクが発生することが初めて確認されました。
しかし、プルキンエ細胞が自発的な信号をランダムに受信しても、樹状突起スパイクが発生することはほとんどなかったため、ニューロンは樹状突起スパイクによって処理すべき信号とノイズを区別していることが明らかになりました。
樹状突起スパイクが、どのような影響をもたらすかはまだ不明確ですが、プルキンエ細胞にごく局所的な変化をもたらすのではないか、と研究チームは考えています。「可能性の一つとして考えられるのは、ニューロンの他のシナプスには影響を与えずに、特定部分のシナプスの強度を変化させているのではないかということです。これが事実だとすると、樹状突起のさまざまな部分が独立的に計算を行えるということになります。それはつまり、ニューロンがこれまでに考えられていたよりもはるかに高い計算能力を持つことを意味するため、重要です」とルーム博士は述べています。
個々のシナプスの強度変化は、短時間で消える活動電位よりも長期的な影響を与えるため、学習の重要なメカニズムであると考えられています。
今後、研究チームは、同時に伝達される信号に反応するメカニズムが、記憶や学習に役立つかどうかをさらに詳しく調べていく予定です。
「ニューロン樹状突起における情報処理メカニズムという、基本的な法則を明らかにするのに私たちの研究が役立つことを期待しています。脳の一般的な働きを理解することで、より優れたコンピュータの開発や人工知能の向上に役立つでしょう。また、樹状突起の処理は、てんかんや自閉症などの多くの神経疾患にも関わっているため、最終的にはこれらの疾患の理解と治療に資する可能性があります」とクン教授は述べています。
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