量子のもつれを用いて解読不可能な暗号を作る

最初のひらめきから最新の研究目標まで、量子暗号を発明した 量子物理学者 アーター・エカート教授のストーリー。

Prof. Artur Ekert in Lab5

量子革命が進む今、これまで想像できなかったような可能性が私たちの手の届くところまで来ています。宇宙の仕組みに関する根本的な疑問から、安全な通信まで、未来の解決策を握っているのが量子力学です。量子力学は、データ通信・処理・保護といった分野においても全く新しい方法に扉を開きました。量子暗号を考案したこの分野のパイオニアであり、2021年4月から教授(アジャンクト)としてOISTで量子情報セキュリティユニットを率いている、アーター・エカート教授をご紹介します。コロナが明けてOISTにより頻繁に滞在できるようになったエカート教授にインタビューしました。

応用数学を学んでいたエカート教授は、図書館で偶然『ファインマン物理学』を見つけるまで、物理学の研究をするとは思っていませんでした。「その本を読んで、完全にはまってしまいました」とエカート教授は話します。この新たな情熱を胸に、オックスフォード大学で博士号取得を目指して研究を開始しました。そこで、量子計算のパイオニアである恩師デイヴィッド・ドイッチュ教授に出会いました。ちょうど同時期に、著名な物理学者アラン・アスペが書いた「量子もつれ」に関する論文にも出会いました。

「深い感銘を受けました。その論文は、量子力学が本質的に予測不可能であることを示していました。これは安全な通信に使えると確信しました。私の出発点でした」とエカート教授は話します。しかし、アスペらの画期的な実験が行われる以前は、量子力学の実験が本質的に予測不可能かどうかについては激しい議論がありました。これらの実験の結果について統計的な予測を得ることは可能でしたが、実際のところはっきりとはわかっていませんでした。「わからなかったのは、量子力学で扱うのは真のランダム性なのか、それとも結果を十分に予測できないだけなのか、ということでした」とエカート教授は説明します。この疑問に対する答えこそが、量子暗号の発展の鍵を握っていることも判明しました。

この宇宙に真のランダム性はあるのか?

ランダムな事象は2種類に分類することができます。科学者たちは「客観的なランダム性」と「主観的なランダム性」と呼んでいます。「例えば、ある出来事があなたにはランダムに見えるかもしれないけれど、私にはそう見えないかもしれません。なぜなら、私はあなたより多くの情報を持っていて、その出来事を理解して予測することができるからです。このような補足情報がない場合は、ある出来事がランダムに見えてしまうでしょう。これを主観的なランダム性と呼びます」とエカート教授は説明します。

意外なことに、古典的な例であるコイントス(コイン投げ)は、主観的なランダム性に属します。初期条件、コインの動きや構造、室内の空気の循環などについて十分な知識があれば、コイントスの結果は完璧に予測可能です。「一方、客観的なランダム性とは、たとえすべてを知っていたとしても結果を予測できない事象のことです」とエカート教授は話します。

20世紀には、科学者たちの間で、量子物理学に客観的なランダム性の要素があるかどうかについて議論が繰り広げられました。この議論では、特に理論物理学者のアルベルト・アインシュタインが激しく反対の立場を取りました。「アインシュタインは、量子力学の実験結果を予測できないのは、情報が不足しているからであって、実験結果が本質的に予測不可能だからではないと考えたのです」とエカート教授は話します。もしそれが正しく、欠けている情報を特定できれば、量子力学の実験結果は予測可能になるはずです。「アインシュタインはこの欠けている情報を “隠れた変数” と呼んだのです。」

量子力学について語るアーター・エカート教授
ランダム性と量子暗号の基本概念について説明するエカート教授。写真提供:大久保知美(OIST)

この論争は、科学者ジョン・ベルが検証可能な仮説(現在では「ベルの不等式」とも呼ばれる)を打ち出すまで、約30年間続きました。この検証によって、量子事象が本当にランダムかどうかという疑問に答えることが可能になりました。簡単に言うと、量子もつれ光子を使った適切な実験では、特定のパラメータが測定されます。このパラメータが期待される範囲外であれば、量子レベルの事象には客観的にランダムな要素があることが裏付けられますが、期待される範囲内であれば、アインシュタインの反論は正しく、隠れた変数が存在することになります。

「問題は、ベルが研究を発表した当時は、まだこのような非常に複雑な実験を行うことができなかったことでした」とエカート教授は続けます。数学的にはできても検証を行う技術がなかったため、この議論はさらに10年間答えが出ないままでした。70年代になって、ようやくこれらの実験が可能になり、ジョン・クラウザーらが最初に実験を行うようになります。「クラウザーがこの最初の実験を行った際、ベルの不等式の破れを観測し、自然が基本的にランダムであるという事実を支持したのです」とエカート教授は話します。

しかし、当時の技術には限界があり、このワクワクするような発見はまだおあずけとなりました。実際、この問題に関してはっきりとした結果が出たのは90年代後半になってからです。アラン・アスペ、ニコラ・ジザン、ロナルド・ハンソン、潘建偉、アントン・ツァイリンガーらによる、量子もつれの性質とベルの不等式に関する画期的な研究によって、量子力学の基本的な働きが証明されました。クラウザーとツァイリンガーは、その先駆的な実験に尽力したことに対して、2022年にノーベル物理学賞を受賞しました。

量子力学から量子暗号学へ

エカート教授は、博士号取得に向けた研究中にこのようなことを知り、ランダム性を利用すれば解読不可能な暗号を開発できることに気づきました。安全な通信が量子化されるより前から、情報を暗号技術によって安全に伝達することは可能でした。ただし、ある重大な欠陥がありました。

「例えば、あなたが誰かに情報を安全に送信したいとします。その際、情報の発信者と受信者は暗号鍵と呼ばれるものが必要になります。これは完全にランダムな0と1の数字の羅列です。この鍵は、絶対に他人に知られないようにしなければなりません」とエカート教授は説明します。鍵はランダムであるため何の意味も持ちませんが、その鍵の持ち主は送信されたメッセージを解読することができます。

 暗号化の仕組み
秘密情報は二進数(バイナリ)に変換された後、二進数の加算によって秘密のランダム暗号鍵に重ね合わされる。その結果、10のランダムな列が生成される。この並びもランダムであるため、列を分析しても、そこに隠された秘密情報を得ることはできない。この段階で、メッセージは暗号文とも呼ばれ、一致する鍵がなければ解読できない。そのため、暗号化されていない回線や公衆の回線を使ったとしても、安全にメッセージを送信することができる。受信者が暗号文を入手し、暗号鍵の乱数列を差し引くことで隠されていた秘密情報を復元できる。イラスト:瀬良垣香織(OIST)

しかし、この従来型の暗号化方式には、鍵を厳重に管理しなければならないというセキュリティ上の弱点があります。万一、不正にアクセスされた場合、送信されたメッセージはすべて解読されてしまう可能性があり、誰にも暗号鍵にアクセスされなかったという確証を得ることはできません。

これまでは、この問題は、通信に保護された回線を使用したり、サイバーセキュリティの専門家が暗号鍵を保護するための様々な安全機能を実装したりすることで対処されてきました。「しかし、たとえ最高のセキュリティが施されていたとしても、誰にもアクセスされなかったと100%断言することはできなかったのです」とエカート教授は指摘します。

ベルの不等式に関する実験によって、量子力学には本質的にランダムな要素があることが示されると、こうした状況は一変します。エカート教授は「量子鍵を使うことが解決策になります。量子鍵は量子もつれ光子を用いて生成されます」と説明します。この方法で暗号鍵を生成すると、ベルの定理を利用して、不正アクセスがあったかどうかを検証することが可能です。「もしあなたの鍵がベルの不等式を破れば、誰もあなたの鍵にアクセスしていないことを確信できます」とエカート教授は話します。これによってエカート教授は、通信を保護する全く新しい方法を発見したのです。すなわち、「量子暗号」です。

量子コンピュータの開発が進むにつれ、従来の暗号化ではセキュリティが低下する可能性があり、この新しい暗号化方式はこれまで以上に重要になっています。特に医療や金融など、機密データを取り扱う分野においては高度なセキュリティは欠かせません。ここで、量子暗号は確実に情報を保護する方法を提供できるのですが、すべての通信の標準になることはないでしょう。エカート教授は次のように説明します。「量子暗号が従来の手法に完全に取って代わることはないでしょう。なぜなら、常に完璧なセキュリティが必要とされているわけではないからです。すべての車をF1の規格に合わせる必要はありませんよね。暗号化も同じです。」

それでも、今日の複雑な技術世界に対応する最新のサイバーセキュリティ戦略を開発することは、科学にとっても社会にとっても重要な課題であり、エカート教授がOISTにやってきた理由の一つでもあります。エカート教授は、「沖縄に活気ある量子・サイバーセキュリティのコミュニティを作る手助けをするためにやって来ました。また、ここでサイバーセキュリティに関する教育を行い、データ保護を向上させるお手伝いもしたいです」と話します。

もうひとつ注力しているのは、ランダム性の概念に関する研究です。OISTでは理想的な環境が提供されているとエカート教授は言います。「研究に専念できる、沖縄の静かで素晴らしい環境に感謝しています。」量子力学において客観的ランダム性が重要な役割を果たしていることは、現在では確立された事実ですが、OISTにおけるエカート教授の研究は、宇宙の本質に関する、根源的な疑問に関するものです。エカート教授の興味はいま、「なぜ物事はランダムなのか」という問題です。

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